男衾三郎絵巻《下巻》



   男衾三郎絵巻前景

 子の日(ネノヒ)とその母は、男衾三郎とその家族に虐待を受け過酷な労働を強いられながらも、じっと耐え続けた。そして、毎晩、親子はあかぎれのひどい血の滲んだ手をすり合わせて、男衾たちに隠れて彫った木製の小さな観音様に拝んでいた。

 ある寒い日の夜、それは大変な強風が吹いていたが、雲は無く、夜空には満月が燦燦と輝いていた。男衾の娘、母の血を受け継ぎ醜いその娘は、年頃だというのに結婚相手が決まらないことで、虫の居所が悪かった。家族の雰囲気も悪く、居たたまれなくなった娘は家を飛び出した。武骨な三郎に育てられた娘である。武具馬具を装備し、馬に乗り、一人で館の周辺の草原をぐるぐると走っていると、子の日の住むあばら家がちらと見える。娘は自分に婚約者が見つからないのは、髪を切り重労働をさせ酷使してもなお美しく輝く子の日といういとこが、自分のそばにいるからだとふと思った。思い込んだら引けず、娘は子の日のあばら家に押し入った。

 子の日と母親は、いつものように、疲れきってはいたが、一心に観音像を拝んでいた。それを見た三郎の娘は、子の日達が自分と家族を恨んで呪っているのだと思い、子の日の背を蹴飛ばした。突然の娘の来襲に子の日と母は驚き慌てふためくばかり。娘は腰に刺した刀を抜くと、
「仏に化けた疫病神め。お前たちを殺してやる前に、その胴体を真っ二つに切ってやるわ」と、仏像に刃を向け、振りかざした。するとどうだろうか。刀は像に触れると粉々に砕けてしまった。観音像は黄金色に輝きだし、目を少し見開いて、子の日に神々しい目を向けて仰せになった。
「慈悲よ。よくぞ、私を信じ、ここまで耐えた。お前とその母に永遠の幸福を与えよう。」
 あまりの出来事に唖然としている子の日達にやさしく語りかけた後、観音様は三郎の娘に振り返り、恐ろしい声でこう仰せになった。
「娘。人が人を殺そうとするのはとんでもないこと。ましてや罪無き人を。お前とお前を養い育てた家に罰を与える。」
 娘は何かの仕掛けかと部屋中を見回した後、それが仕掛けでもなんでもないとわかると、わなわなと震えだした。観音様が続けて
「娘よ。お前は今すぐ野を越え、川を越えて、国司の元に向かうのだ。そしてお前にできることを全てやってくるのだ」と仰った。
 娘は、その言葉に従うほか無く、仏力に操られるがままに家の外に出て、ふわりと馬に乗って闇の中をどこかに行ってしまった。
 体をすくめ身を寄せ合っていた子の日と母親に対し、観音様は優しく告げた。
「明日の晩、再び望月は昇るだろう。私の法力による月だ。お前はその月に向かって、想い人の名を唱えるのだ。さすれば、お前は再び慈悲と名乗る日が来るだろう」
 観音像はそういい残すと、光を放ちながら静かに消えた。

 三郎の娘は、馬に乗り野を駆けた。観音様は罰を与えると仰せられたが、武蔵国司と結婚をするためにこうして向かっているのだと娘は思った。そして、以前に会ったときに国司にもっと言い寄れば良かったのかも知れないと少し悔いた。荒々しく武術三昧の三郎に育てられた娘は、努力でどうにでもなると思い込んでいる節があった。ことに娘は和歌や弦楽などの学問よりも、流鏑馬・犬追物などの武術の鍛錬に力を注いだ男顔負けの武士であり、自信家であったから、観音様の「罰」と言われたその言葉が嘘のように思えてきた。

 武蔵国司の館に着く頃には、日は昇り、鳥たちが朝鳴きをしながら群れを成して飛んでいた。櫓の上の番人が、門前に立っている三郎の娘を見下ろす。娘の顔は母に似て醜悪なことで大変有名になっていたから、門番は馬に乗った娘を奥に通した。

 朝も晩も子の日のことを思い続けて夜も眠れず恋に悩む武蔵国司は、氷が一面に張った池をぼんやりと見つめていた。

 そこへ、三郎の娘がやって来たことを知り国司はびっくりした。三郎の娘は国司の家臣に連れられて別室に待機しているという。国司は恐る恐る部屋の戸を引いた。するとそこには、髪はちりぢりに縮れ、横幅の広い醜い顔をした女が武装をして立っているではないか。腰に脇差をさし、弓とやなぐいを背に背負っている女は国司のほうを振り向くと般若のお面のようにいかめしい顔をした。娘にとってそれはただ微笑んだだけであったが、その表情には全ての男を萎縮させる凄みがあった。
 国司はそのあられもない姿に恐怖を感じながらもいぶかしく思い、娘と目を合わせぬように慎重に話し出した。
「そなたの格好は一体なんなのじゃ」
 娘は微笑みつつ、腕を湾曲させながら言う。
「父の命を受けて、やって参ったのです」
 娘は腕を曲げて、女らしさを表そうとしたが、娘の体格のいかついことといったらこの上なく、逆効果であった。国司は一歩後ずさりした。汗がしたたる。醜女を前に足元が少しふらついた。
「三郎殿が。
 まさか我が命を取りに参ったのか」国司は上体を立て直し少々皮肉交じりに冗談を言うと、
「はい。私は殿の心を奪い、命を共にするために参りました。私の弓の腕前をご覧に入れましょうぞ」娘はこのように答える始末。
「…」話がかみ合わないので、国司はもどかしくなった。
 この醜女は、西の国の盲目の天使とやらのように、やなぐいに挿した矢で国司の心を射止めようと画策しているらしい。国司の理想の女は、子の日のようにやさしくおしとやかな女で、なにより見目麗しい女でないとだめだから、子の日と三郎の娘では雲泥の差だと、まったくこんな娘を相手にしたくなかった。そこで、せっかく三郎の娘が男のように一人で婚約をしに来たのだから、こちら側の主導権を発動して、どうにか娘を追い返してしまおうと考えた。

「そなたは私の妻となるに相応しい資質を持っているか」と国司は切り出した。
「資質、私は百発の矢を同じ的の一点に当てることが出来ます。馬を駆けさせながら、同じ的に二三発の矢をぶち込むことが出来ます」三郎の娘は得意げに言った。
「武士としての資質ではない。私の妻としての資質だ」
「争いが起きた時、食料を負ぶって逃げることが出来ます。100人の兵どもに握り飯くらい作ってやることが出来ます」
 男はため息をついた。その後ろに控えていた男の従者も同様に息が漏れた。
「それも妻の資質ではない。下女の仕事であろう。…三郎殿は一体どのような躾を」

 武蔵国司は、娘を待たせ、家来たちに和歌の本や笛、箏、琵琶、舞の扇などを部屋に持ってこさせた。そして娘に
「私の妻になりたいのなら、ここにあるものを使って、教養があることを示し、私を少しでも感動させてみなさい」と言った。娘は小さい頃から徹底した教育を受けてはいたが、どれをやってもとんちんかんだったから、娘の前に置かれた物を使って何かをすることは到底出来そうにないと思った。そこで、娘は自分の持ってきた弓矢の腕前を見せようとするが、国司は「それでは妻の資質を認められない」と言う。娘は戸を開け強引に狙いを定めて矢を射ろうとしたが、あろうことか娘が握ったところから弓がぼろぼろと朽ちて崩れてしまった。観音様の力であろうか。娘が大切に扱っていた大事な弓だったので、娘もぼろぼろと崩れ落ちそうなほど衝撃を受けたが、婚約者を得るためには手段を選ばず。同じ弦とやら、矢を射られぬこともない、こちらの方が国司の言にも都合がよいと、箏を片手で持ち上げた。それには国司もびっくり仰天して、あわてて箏を戻そうとしたが、娘は
「この箏の弦であの松の木に止まっている一羽のほととぎすを射落としたら、あなたはきっと感動なさるはずだ。」と言って聞かず、さっと矢を番えると、はしっと手を離した。一発目、娘は初めて箏で矢を射ったものだから、とんでもない方向に飛んでいった。虚空に飛んでいったその矢は、男衾の領地に飛んでいき、娘はどこに行ったのだろうと探して窓から外を眺めていた三郎の妻の右耳を貫いた。矢の威力で妻は吹っ飛び奥の部屋の柱に頭をぶつけて意識を失ってしまった。

 娘はそんなことも知らず、集中して二発目を放った。矢はまっすぐに飛び、松の木のほととぎすが止まっている枝の付け根に当たった。枝はわさわさと揺れたが、上のほととぎすは少しも驚いた様子を見せず、翼をつくろっている。娘は舌打ちしたが、国司は内心、この娘のような武骨な家来がそばに仕えてくれたらいいと思った。男ならば申し分ないのだ。その醜い顔も主君を引き立ててくれるのだから。          
 そのころ、男衾邸では、妻が倒れたことで大変な事態になっていた。三郎は朝から家来と所領を巡って留守にしており、従者や下女たちは敵の来襲じゃないかと恐れをなしていた。醜女の意識は戻ったが、耳を貫通して柱に突き刺さった矢は抜けそうにない。

 そして三発目。娘は調子に乗って、箏の弦を必要以上に引いた。すると、箏の弦は切れてはじけ、松の枝のほととぎすへ飛んでいくはずの矢がぐるりと旋回し、国司の方向へ飛んでいった。国司は咄嗟によけることが出来たが、その後ろにいた重臣の額に矢が刺さってしまった。重臣の額に刺さった矢の代わりに血しぶきが噴出し、そのまま仰向けに倒れた。当然即死だった。国司は大事な家臣を突然失ってしまったことに思わず刀を抜いて、娘を切ろうとしたがかろうじて我慢し、娘をその松の木の幹に固く縛り付けると、早々大勢の兵を集めて男衾の館に攻めに行った。そして、男衾のいない間に、半日もかからないうちに、館に火をつけて燃してしまった。館から逃げたものを国司は殺す気はなかったので、多くの従者は蜘蛛の巣を散らしたかのようにてんでばらばらに離散していった。
 柱に矢で耳を打ち付けられた三郎の妻は炎の中必死で矢を引き抜こうとしたがかなわず、仕方がないから侍女に右耳を削いでもらって脱出した。その後、その妻は“片耳醜女”と呼ばれたが、詳しい消息は不明である。

 所領から戻ってきた男衾三郎は、自分の館の無残な消失に呆然とし、そのままどこかへ行ってしまった。家臣の屋敷か、遠い親戚の館か、自分の領地のどこかに身を潜めたのか、誰も知らない。

 松の木に縛り付けられた三郎の娘は、なおも自分の頭上の枝にほととぎすが身動きしないでいるのを見た。国司の館のもののほとんどが出陣し、静かになると、ほととぎすはすっと首をもたげ娘と目を合わせた。すると、ほととぎすは見る見るうちに黄金の観音様の姿に変わり、憂いのある面持ちで娘に語りかけた。
「お前たち家族は、私が目をかけていた慈悲とその母二人を生かさず殺さず酷使した。死ぬことよりも辛いことを強制した。だからお前たちはもっと辛い罰を受けるべきである。しかし、私の心には慈悲がある。私はお前たちに罰を与えたが、これからは慈悲を与えるつもりだ。あの娘の名が、お前たちをこれから救うのだ。」
 そう仰ると、観音様は再びほととぎすになり、娘を縛っていた縄をくちばしで解いた。そして、青い青い空の彼方に飛んでいってしまった。その後の娘の行方は、前の二方と同じようにはっきりとはしないが、命を取りとめた男衾の家族はどこかで落ち延び、男衾の血筋は観音の慈悲によって後世まで続いたという。

 一方、吉見二郎の娘慈悲は、燃え盛る三郎の館を見て、嘆息していた。その母親は、夫が生きていた頃からの時代の移り変わりの激しいことに、この世のはかなさを感じた。三郎とその妻らの仕打ちから解放されたけれども、財産のないみすぼらしいこの身一つでは、まだ男衾の元で働いてろくに食わせてもらえない生活のほうが、まだ食えたものだ。母親は、美しい娘の今後の哀れな生涯を想像し嘆き悲しんだ。

 一日は長いようであっという間に過ぎた。前の晩に観音様が仰ったように、昨日と同じ満月が昇った。慈悲は昨晩見た観音を夢か幻かと思い、どうせ叶わぬことと半ば諦めていた。しかし、満月を眺めると武蔵野国司の顔が思い出されて、胸がぐっとしまるのを覚えた。そして、泉の底から清水が湧き出るかのように、ふと国司の名を口にした。すると、どうだろう。家の向こうに広がる荒れ野から、ざくざくと霜を踏みながら誰かが歩いてくる音がするではないか。それは確かに慈悲の家に近づいてくる。慈悲が戸を開けると、その者は走ってやってきた。そして二人は扉の前で固く抱きしめあった。今までの観音様の偉大さを知るものならば、その者の名を言う必要はなかろう。

 追記すると、その後の男衾の家来の証言で、あばら家に住む子の日が実は吉見二郎の娘慈悲であることが判明し、国司はすぐに慈悲を迎えに行ったというわけだ。三郎の娘に殺された家臣の葬儀を行った後、二人は結婚して、慈悲の母を養いながら幸せに暮らした。時折、国司は箏を慈悲に弾かせて、弦の抜けた部分を指して、「箏で矢を射た大うつけ者がいたのだよ。これが証だ。」といって矢を射るポーズをしたというが、箏などでどうやって矢を打ったのか誰にも想像のしようがない大うつけ話である。

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