学年末課題
1.「教育」の基本的視野について説明しなさい。
基本的視点には、従来の強制的な教育と、消極的な教育の二つがある。強制的な教育(しつけ)は一般に「動物モデル」や「陶芸モデル」と言われ、教師から学習者(生徒)に一方的に知識を伝授する教育法であり、順序良く教えていけることが利点である。ここでは、人間の本質が悪いものであるとする性悪説を取っている。一方、消極的な教育(しつけ)は、1700年代後半に推奨された比較的新しい教育法で、一般に「植物モデル」や「園芸モデル」と呼ばれる。それは、社会教育や生涯学習における学習者を主体として指導を受ける教育で、自主的に良いことを望み学ぼうとする意思を持つ性善説に基づいている。学習者と指導者が、補完しあう意味で「人間モデル」とも言われる。
E.デュルケームは「教育と社会学」で次のように述べている。「教育」とは、社会生活においてまだ成熟していない世代に対して成人世代によって行使される作用であり、「教育の目的」とは、未成年者の個人的存在を、彼らが所属する集団もしくは種々の集団を表明している観念、感情及び慣習の体系に馴染ませることである。すなわち、社会的存在を形成することである。
T.パーソンズは、家族機能としての「教育」について、子供が自分の生まれついた社会のメンバーとなれるように行われる基礎的な社会化としてのパーソナリティの形成が家庭内で行われ、徐々にその段階が発達していくことを順序だてて説明した。「口唇依存期」「愛情依存期」「潜在期」「成熟期」の4つの段階と折々の危機を通して、子供は各社会の文化を内在化し、成人後のパーソナリティの安定は労働力の再生産として重要であることを述べている。
2.学社連携・学社融合の違いについて説明し、各自どちらか一つ具体的プランを作成しなさい。
学社連携は、学校教育か、社会教育か、どちらか一方の目標や目的を達成するために取られる方法であり、授業の全部または一部を協力・支援する関係で成り立っている。主催側が中心となって計画と評価を行う。一方、学社融合は、学校教育と社会教育両方に共通した内容を持ち、双方の目標や目的を同時に達成することができる時に、双方が授業を計画し、実施することであり、お互いにメリットが生まれる。
具体的プラン
私が住む川越では毎年10月に“川越祭”という伝統行事があり、たくさんの山車や屋台が出る。小学1.2年生の時に、学校の子供達だけで“お祭り”をしようということになって、私は屋台を出したり、お囃子で小太鼓を叩いたりした。屋台はやりたいようにやっていたが、お囃子のほうは、実際に習って祭の時に乗っている子がいて、太鼓の打ち方など教えてもらった。このことを思い出し次のような簡単なプランを考えてみた。
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目的:お祭りで活躍する人々を学習しよう!
〜学社連携型、主催者学校
週に1回ほど、お囃子のお話(歴史)を聞いたり(博物館に行って山車・お囃子に関する知識や川越の歴史に触れる)、稽古をしに行ったり、自主的に練習をする。夏休みに合宿をして、練習に励みながら、年配の方のお話や技巧の伝授を受ける。10月の川越祭時にお囃子をして、参加をする。その下で屋台も少し出してみる。
3.「青い目と茶色い目」の感想を述べなさい。
私は、差別をしたり、偏見や先入観を持ったりしないよう気をつけていて、差別が現在の社会にまだ多く存在していることを不快に思っているが、ジェーン・エリオット氏のやり方には反対である。1968年4月に小学3年生に対して行われた授業は、“人種差別をしてはいけない理由を理解する手段として、自分達が実際に差別を受けてみよう”と前もって説明されていた点で許せるが、刑務所や企業の職員に対して、講義の内容も明らかにせずに擬似差別体験をさせるのはどうかと思う。心理学の実験では、被験者に何も知らせずに実験を行うことが多々あるが、私はそれによって精神を狂わせることを恐れる。「青い目と茶色い目」ではない別の実験で、心理学者が学生被験者を囚人と看守に分けて、ある期間過ごさせたところ、囚人役は絶望的になり、看守役は囚人に対して高慢で高圧的な態度を取るようになったという結果が出たそうだが、そこで囚人役を経験した人の多くに精神面で支障が出ているそうである。
しかし、かといって、今の段階で社会的優位にある白人職員を優遇していいと言うわけではない。アメリカ社会で差別を受けている黒人やインディアンなどの人々は、何の言われもなく、生れ落ちたその時点から差別を受けるのであって、講習内容も知らずに受けた“予期しない差別”という点では共通している。エリオット氏は、キング牧師の死後、黒人指導者に無神経な質問をする白人の解説者の高慢な態度を見て、「子供たちを差別意識というウイルスから守りたい」という思いを持って実験授業を試みたそうだが、“差別を受ける側に立って、不当に差別されることの辛さを実感し、差別意識を持たないでほしい”という“独断的構想”のもと“無断”で実験を行っているように私は思う。
そこには、「教育」の基本的視点も関与してくると思う。あのような講習の場合、私は即刻(廊下に20分以上待たされている時点で)帰るが、小学生に対しても社会人に対しても、強制的な教育に他ならない。彼女は巧みな話術で、上からモノをいい人々を煽動し、自分の主張を人々の頭に植えつけている。感情的手段(被差別者を絶望感に浸らせること)と、理論的手段(被差別者の能力の著しい低下を証明すること)によって、“差別は良くない、絶対にしてはいけない”ということを根付かせている。それは事実正しいことであるのだろうが、実験で作られた差別者の高慢な態度よりも教育者のマインドコントロール的な指導が鼻についた。彼女は人間を信じていないようにみえる。全ての人間が悪く生まれついているから、それを徹底的に矯正しようとしているかにみえた。
実験の内容としては、納得のいくものではあった。「差別をしましょう」と言ったとたんに子供達の差別が始まったこと。被差別者は、苛められっ子同様に絶望し何かをする気力も失せてしまうこと。程度は小さいが、私にも同じようにラベリング理論(ピグマリオン効果)に当てはまることがあるので理解できる。
話は戻るが、教育の現場には、あらゆる意思を持った人間が通う。いろいろな考え方や感情を持った人たちに、教師側の主張を一様に刷り込ませようとするのは間違っている。私は、あのビデオを見て、人種差別について深く考えることが出来たけれど、実際に映像の向こう側で被験者になろうとは絶対に思わない。彼らは、エリオット氏と視聴者にとっての実験用モルモットに過ぎないからだ。あえて、もう少し語調を和らげるならば、“学べるモルモット”というところだろうか。
なお、私は“差別をしてはいけない”という結果を出す実験よりも、“なぜ差別が生まれるのか”という研究の方に興味がある。
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