幕末に関して授業で学んだこと
私は先生の授業を毎回出ていたが、日本史の、特に近代は知識がなく(高校で適当に勉強したので)、人物名や地名、事件の名前などで混乱した。先生の授業は、政権を握ろうとしている身分の高い人たちが、個々でどのように考えて行動していたのか詳しく説明されていたが、幕末の動乱について大河ドラマや歴史小説で得られるような知識すら持ってない私にとっては、日本の歴史として政争や外政を捉えるよりも、むしろ普遍なあるいは特殊な権力闘争として聞くこととなり、人間の行動とその動機とを知ることが出来、それはそれで大変興味深かった。人間の行動(事件)には動機があり、歴史を研究する人はその動機を探ることで、事件が起きたことを納得する手がかりとしている。(全ての事件が、何らかの動機によって意味づけることはできないとは思うが、動機や目的、当時の人の狙いを考える価値はある。)その動機の根本は“権威”であり、行動の具合によって起きる“権威”の上昇と低下について、幕閣や朝廷、有力大名などは常に考えているようだ。このことは、授業で説明された、桜田門外の変による井伊直弼暗殺や、福地源一郎の『幕府衰亡論』にあるように幕府が米使到来に際して、将軍専裁の政体を崩して朝廷や諸侯に意見を訊いたことや、長州処分を決定したのに結局失敗に終わってしまったことなどが、幕府の“権威”の著しい低下につながったことからもわかる。また、権力者(徳川将軍、天皇)のカリスマ性が、どのように成り立っているのかやホモセクシャルな主従関係・君主への従順な忠誠心、学者たちの様々な意見などにも興味を持った。漢文が読めれば、より楽しい人生が送れそうだ。
ところで、授業では言葉自体がわからないことも多かったので、史学科書庫で幕末と開国についての本を探していたら、井上先生の著した「開国と幕末の動乱」『日本の時代史20 井上勲〔編〕開国と幕末の動乱』吉川弘文館 2004年があり、頁をめくったら、嘉永6年7月幕府諮問に対する諸大名の意見分布という配布された資料にあった表を見つけて、授業について詳しく説明してあると思ったので読んだ。ここでは、授業で印象深かった長州征伐(幕府の権威の著しい低下に関する)までのことで、わからなかった言葉や授業を聞き、本を読んでなるほどと思ったことを自分なりに授業を整理していきたいと思う。
米国の開国要求に対する幕府の措置
先にも書いたように、ペリーの開国要求の際に、幕府が朝廷へ奏聞し、諸侯へ諮問したことは、幕府の従来の独裁体制を崩し、政権の集中を弱めるとともに、幕藩体制に埋没していた団体・集団・個人が政治に参加するきっかけを与え、政治社会誕生の直接の契機となった。また、列強の強制的な開国要求によって、幕府は海上からの危機に対抗する臨時の体制を構築しなければならず、その海防財源の捻出のために、軍事力抑制の目的で武家諸法度に定められた禁令を解いたり、参勤交代の緩和をするなど、諸藩の自立化を促した。
将軍補佐に配される徳川同族と譜代門閥の関係
同族とは主に三家、三卿。門閥とは井伊家を筆頭とする譜代大名。補佐の任に当たった同族の声望が高まると将軍の威信が損なわれ、幕政に混乱をもたらす可能性があるために、譜代門閥がこれを抑制する。譜代門閥から将軍の権威を凌ぐほどの権臣が出た時には、同族がこれを排除する。そういう相互監視の関係にある。
将軍継嗣問題 慶福と慶喜
徳川家定は病弱で、跡継ぎもいなかった。将軍継嗣には、徳川一門から選ばれ、現将軍より若年であることが望ましい。徳川慶福は、紀州藩主で12歳。徳川慶喜は一橋家当主で21歳である。年齢に加え、将軍家と血脈の遠い水戸徳川家の出身である慶喜よりも、家定の従弟にあたる血縁的にも近い慶福が継嗣として想定され、実際に次の将軍となった。
慶喜への期待 諸侯と幕府官僚 一方の慶福
幕政の政策決定から排除されていた親藩と外様の藩主が、慶喜へ期待したことは、開国の将来に不安を感じ政治に参与したい諸侯の意欲を吸収し、高次の政治統合を達成することであった。幕府閣僚は、開国のために外交・軍政・財政などの多岐にわたる改革の実行を慶喜に期待した。慶喜が年長、英明であり人望のある人物ゆえに継嗣への推挙があったのだろうと書かれている。急速に変っていく時代の中で、幼い将軍に付いた後見によって行われる政治よりも、改革を推し進めることのできる成人した将軍が行う政治のほうがいいと思われていたのだろう。慶喜を継嗣に期待した個々人を一橋派という派閥で捉えることができる。一方、慶福を推奨した井伊直弼は、戦国乱世を終わらせ泰平をもたらしたカリスマである家康の血筋を受けた人格を主張し、そこの人格に忠誠という人望も帰すという継嗣選定の基準そのものに関わる論理を打ち立てたが、派閥はない。将軍の最も重要な専権事項である継嗣の選定で、家定の意向は慶福であることは自然の成り行きであった。
朝廷の機構の動態化と意志
1858年(安政五)二月、通商条約の締結について、朝廷の承諾を得るために老中堀田正睦が上洛したことは、朝廷の政治化への直接の契機となった。朝廷における意思決定への参加数が拡大し、家格を超えた政治集団が形成された。朝廷の存立の根拠は、皇統の連続性を証明する伝統の保持である。それ故、朝廷は現状維持、つまり鎖国の維持を願った。
大老井伊直弼と安政の大獄
今まで、「大老とは、“臨時”の時に置かれる幕府最高の職」と習い、何が“臨時”なのかわかってなかったので、本を読んで良かった。前将軍の死去と、新将軍の就任に至る間の、将軍不在時に幕政の管理に当たる役職として、大老が配される。大老井伊は、次代将軍となる慶福の安全を確保し、継承をめぐる政争によって幕府の権威を落とさないために、慶喜の一橋派を追放する。朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を調印したことに対する朝廷の批判は、戊午の密勅によって政治社会に知れ渡り、幕府は条約調印への了承を得ることと、朝廷の関係を復旧させることの対処を迫られた。井伊は、継嗣問題の発生や条約締結への反対や戊午の密勅の交付を伝統の統治秩序の紊乱であるとし、粛清を行った。(安政の大獄)
桜田門外の変 幕藩体制の崩壊
条約締結の断行、将軍継嗣の選定への寄与で、莫大な権力を保有し、さらに安政大獄の意志決定者であり最強の権力者となった井伊直弼が、水戸と薩摩の浪士に殺害されたことによる、影響ははかり知れない。この権力の突然の消失は、幕府の権力の崩壊をもたらした。授業ではさらに、3月3日というめでたい日に桜田門という聖なる空間かつ幕府の警備の強い場所で殺害されたということが、幕府と周囲に衝撃を与えたと説明された。
大政委任論
外交問題は大政(幕府の統治)の枠外に発生した問題群であると認識され、国事の概念が形成された。国事は、外交問題と朝廷の政治機能の拡大に伴う問題であり、その最終決定の権能は朝廷に属するという通念が定着していった。しかし、行政力と軍事力を保有する組織は幕府を置いて他にないので、朝廷と幕府が協調し、国事の決定を実行に移していくという構想が生まれた。
公武合体運動の目的は、朝廷と幕府の強調それ自体であり、その進化の果てに新たな政治統合への模索がある。一方、尊王攘夷運動の目的は、尊王のために攘夷を実践するよう幕府に催促することであった。
1868年(文久三)3月7日、家茂が参内して大政委任の確認の儀式があった。幕閣は政令帰一の願望を持っていたが、政令帰一の儀式はむしろ幕府の全国支配の正統性を腐食させた。というのも、朝廷への権力が傾斜している今、幕府への委任があるなら、その逆である大政奉還の可能性も浮上するからである。
薩摩藩の公武合体運動 寺田屋騒動
兄斉彬の遺志を継いだ島津久光が推し進める公武合体の構想を朝廷は好意を持って迎えたが、その運動に着手する前に、尊王攘夷の志士の行動に対処した。薩摩藩の志士たち有馬新七らを含む志士による襲撃を阻止するため、船宿寺田屋に家臣を差し向けて拘引させた。反抗した者は斬殺されたという騒動であった。これによって、島津久光の威信は高まった。
長州藩の尊王攘夷運動
毛利定広による江戸への勅諚伝達では、尊王攘夷運動で死んだ志士の霊を祭り、横死した志士の復権を語って、その遺志を継承することを宣言した。志士を処罰したのは幕府であり、そのことは幕府の政治方針への批判を意味していた。公武合体運動とも決別し、寺田屋で殺害された志士の復権を語ることは、島津久光を批判することであり、薩長両藩の対立も起こった。
八月十八日の政変と参与会議
長州藩と尊王攘夷運動への敵対が表面化し始める。鎖国の状態維持が望ましい朝廷も対外戦争による混乱が伝統継承を阻害することを恐れ、尊王攘夷派の長州藩の禁門警衛が解任された。また、八月十八日の政変で、長州藩と尊王攘夷運動に手のひらを返した朝廷が、反覆の綸旨を示したことで、尊王攘夷運動の正統性を剥奪した半面で、以前の勅諚の無謬性に損傷を与え、勅諚に対する真偽の決議論が進んだ。
政変の担い手は、政治社会の主導者であろうとしなかったので、権力真空の状況が出現した。有志大名の協議で、朝廷会議の構成そのものの改革があった。徳川慶喜・松平容保・松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光が朝廷参与の任命を受けた。課題は、長州藩に対する制裁の問題と対外方針の確定についてで、破約攘夷はありえなかった。しかし、参与会議に任命された有志大名の代表性については保証されず、この会議が政治的意味を持つか疑問である。
長州征討と長州処分
私は長州征伐自体を授業で教わるまで知らなかったので、2回行われたのではなく、それが罪状確定と次に行われる刑の執行であることをすんなり受け入れてしまった。元治1年の禁門の変で御所に向けて鉄砲を発射した長州藩は「朝敵、幕敵、諸藩敵、諸外国敵」と形容され、全てを敵に回してしまった。しかし、朝廷に長州追討令を手交された幕府は、自分達だけで長州藩を処分しようとするが、長州藩主を江戸に送る計画が失敗し、命令の発行主体としての権威が著しく低下した。
このレポートが試験中に返却された時、私は「優秀な高校生の
レポートだ」と言われ、ショックを受けた。まあ、読めばわかるとおり、自分の意見らしい物は
一切書いてないからしょうがないのだが・・・。これを出して、単位がもらえるほうが不思議だと
感じる方もいるだろう・・・。論文を要約した感じになってしまって残念だ。
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