ヘレン・ケラーの自伝を読んで

ヘレン・ケラーの伝記、―小学生の頃に読んだ伝記シリーズの中にそれは必ずあった―は、簡単に説明すると、目も見えず、耳も聞こえない一人の女性が、アン・サリバン女史によって教育の手ほどきを受けて、大変な努力をして勉学を大成し、世の身体障害者の教育と福祉に貢献したという話である。
今回、私はヘレン・ケラーのことを他者が書いた伝記ではなく、ヘレン・ケラーが自分の半生(21歳まで)を書いた自伝HELEN KELLER The Story of My Lifeを初めて読んだ。
視力が悪い私も眼鏡をかければ視力を取り戻し、普通の生活を送れる。それに対し、眼鏡をかけても光が見えず、音も聞こえない人々は、自伝に何を書くのか、私は本屋でこの本を手に取った時に大変興味を持った。
この本を読んで、―幼い頃にヘレン・ケラーの伝記を読んだことがあるものの―、私は彼女に対して、いや身体障害者に対して、大きな誤解をしていることがわかった。ヘレン・ケラーの自伝は、ヘレン・ケラー自身は、見事に私の想像を裏切った。彼女の文章に描かれた風景描写は、我々が視覚や聴覚で取り入れた感覚と同じ、もしくはそれ以上の精彩のあるものだった。何より目や耳が使えない分だけ、触ったり、嗅いだりして、彼女の周りを取り巻く環境をつぶさに観察するその洞察力が素晴らしいと思った。ヘレン・ケラーは目が見えず耳も聞こえない、ならば彼女が見たというその景色は一体なんなのだろう、彼女が聞いたという鳥の声や滝の音は一体何なのだろうという不思議な疑問も湧いたが、彼女の繊細な感覚や博識な才媛になるための努力を考えれば、それも納得する。生後19ヶ月で盲亜となってしまった彼女は、アン・サリバンというヘレンに奇跡を起こしたその人によって、心を開き、全ての事象に心を傾けることが出来るようになったのだろう。
ヘレンだけにいえることではなく、最近は駅に盲学校のバスが停まりそこに集まる生徒の姿をよく見るのだが、目が見えない人は本当に身体障害者なのだろうかと疑問に感じることがある。勿論、道を歩く時など、何も見えない彼らの周りには危険がいっぱいだ。その点では、彼らは障害を持っているだろう。けれども、目が見えない分だけ、他の感覚が鋭くなって、我々以上に他の情報を集められていることもある。彼らは皆と同じように生きるために、いつも神経を張り巡らせて感覚を研ぎ澄ましているのだと私は思う。
ヘレンは、聡明で、努力家で、19歳でハーバード大学のラドクリフ・カレッジに入学することが出来た。私がびっくりしたのは、彼女が21歳までに読んだ本の多さである。現代の日本の学生でこんなに本を読んでいる人間も稀なのではないかと思ったほどだ。点文字や、指文字を使って読む盲人の大変さを考えたら、並大抵の勉強量ではない。彼女は数学が苦手だった。数学なんて、目の見えない人がどうやって考えるのだろうか、頭の中で一つ一つ計算したものを覚えるなんて困難極まりない作業だ。
彼女は、大学生活を大いに満喫して、そして卒業した後は、福祉活動のみに限らず、広範囲な政治的関心をもち活動した(自伝にはそこまで書いてはいないが)。当時として、彼女は先進的な思想をもち、男女同権論者として婦人参政権を主張し、また人種差別反対論者であり、また過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮に反対したそうである。
このように彼女が活躍できたのも全ては、彼女が7歳の時に出会い、全てのものには名前があることを教え その後もずっと、ヘレンの目の代わりをつとめ、指文字で通訳していたアン・サリバン女史のおかげである。日本では「奇跡の人」をヘレン・ケラーのことと勘違いしている人がとても多いが、―私もその一人であったが―、アン・サリバンこそヘレンに奇跡をもたらした人である。ヘレンが大学で勉強していた時も、講義の内容を指文字で伝え、ヘレンへの献身は、死ぬまで続いたという彼女は、教育者の鑑であり、何よりもヘレンを支え続けた陰の功労者と言えるだろう。
そして、さらにヘレンがアン・サリバンを家庭教師と迎えることが出来、聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル氏や諸々の著名人に出会ったり、彼女の深い知識の源となる学問を思う存分勉強出来たり、様々なところへ旅をしてたくさんの経験をしたことは、彼女の家の裕福さのおかげである。全ての身体障害者(盲亜者)がこの時代に、豊かな知性を育めたわけではないから、彼女は幸せな境遇に生まれたと言える。
彼女の推し進めた身体障害者への教育と福祉が、貧富に関係なく、あらゆる人に勉強して知識を自分のものとする自由を与え、闇の世界に閉じこもりがちな純粋な心に光を与え、心の開放をもたらすことを私は祈っている。

英文(提出課題)



topへ戻る