〜音楽の本物と偽者〜『楽譜』の遍歴
「楽譜」は演奏方法を記号によって記録する媒体であり、過去の音楽作品を再現するのに必要である。
しかし、その楽譜によって再現された演奏は、作られた当時の音楽とはだいぶ異なっているのでは
ないか。私は、「楽譜」について学び、「楽譜」の真偽について検討した。
楽譜の種類には、作曲家自身が書いた“自筆譜”、作曲者以外の人が写した“筆写譜”、
出版社で活字化された“出版譜”、演奏時に工夫を凝らすために前の楽譜を自分なりに解釈し
記号を書き加えた“実用譜”がある。これらの楽譜にはそれぞれ栄えた時代がある。
中世期には自筆譜が伝わってなく、作曲者不詳の曲を筆写した筆写譜によって、
人気の曲がヨーロッパ中に広まった。しかし、筆写は手作業であったため、
楽譜の値段も高かった。
ルネサンス期の半ば16世紀の初めになると、グーテンベルクによる活版印刷術が楽譜に導入され、
出版譜は全盛をきわめた。自筆譜も確認が可能であり、作曲者が意識され始めた。
その後、バロック時代に入ると出版譜が一般的となった。筆写譜も多少残っていたが、
近代に近づくにつれ、活版印刷による楽譜の普及によって、当時の感性にあった曲が大ヒットした。
しかし、楽譜、楽譜といっても、昔の楽譜は、現在音楽のお店・本屋で売っているものとは
少し違うようだ。 中世の楽譜はネウマ譜といって、一本の線の上下に点が打ってあるだけだった。
中世の楽譜はほとんどが、教会で歌われるグレゴリオ聖歌などであり、歌っている人は修道僧で、
普段からよく歌っている曲だった。そのため、忘れた時にわかるよう、簡単に書いてあったのだ。
現在の我々にとって、ほとんどの場合、楽譜はまず初めての曲に取り組むために使われるだろう。
それに対し、中世の修道僧たちは、口伝えで歌を伝授した。楽譜がなくても良かったのだ。
その他に、14世紀初めのフランスの王家にあったフォーヴェル物語という楽譜は、
絵や文章の途中に楽譜が記録として載っていたことから、演奏するために作られた筆写譜や
実用譜ではない読み物としての「楽譜」であることが伺える。このように現代の普通の出版譜や
実用譜とは一目で異なっている、装飾された楽譜も存在する。これらは、
贈答品として作られたと考えられる。
このように先ほどあげた4種類の楽譜以外にも、実用性を欠いた楽譜が存在する。
自筆譜以外の楽譜には、後世の人の手が加えられ、記号を書き添えて編集されている可能性が高く、
作曲家の考えに沿って作られているのかという点で問題がある。
自筆譜は、作曲家自らの手で作られているであろうが、この世に1部あるか、もしくは
紛失しているかで、その本物の楽譜を用いた演奏はきわめて困難である。また、私が
所属している音楽部のプロの指揮者に聞いた話であるが、例えば、シューマンの自筆譜は
アクセントかディミヌエンドか判断しにくいそうだ。このことから、自筆譜を筆者譜などに
写す場合はもちろん、我々が運良く自筆譜を手に入れ演奏する機会に恵まれたとしても、
作曲家の意図どおりの演奏が出来るとは限らない。解釈しだいでは、全く違った演奏に
なってしまうだろう。
また、作曲家本人があずかり知らぬところで、出版社が勝手に楽譜を作ってしまった場合と、
作曲家の承諾を得て出版された場合とではどちらが作曲家の意がより反映されているのかも
疑問である。それ以前にその楽譜が本当に作曲家自身の作品なのか、も疑わしい。
近代の学者が、楽譜の作曲者記名を疑いもせずに、その作曲家のリストに加えてしまっているからだ。
それから編曲されたものははたして本物と言えるのか?という大きな問題がある。
中世以前は作曲者など関係なく流行の音楽は波及した。その過程でどう編曲されようと、
より高等なすばらしい音楽になればよいと思われていたのだろう。
ところで、能や狂言などの江戸時代以前の日本の伝統芸能には、きちんとした発端者がいない。
それは、発端者が政治の中心になるような人物でなく、庶民か、それより下層の階級の人だった
ためだと言われている。しかし、発端者が身分の低い人でもその素晴らしい芸能に対し、
身分の高い人はひれ伏した。高校時代に読んだ文章に書いてあったが、現代の芸術観は、
作曲者や創作者、元祖を明確に割り出そうとしているが、以前の文化というのはそのようなもの
がなかったという。伝わればいいのは、その芸の術だった。昔の時代において大切だったのは
個人ではなく、生きる為の職業を家(団体)が継ぐことだった。著作権という権利で、
誰が創始したのかをはっきりさせるようになったのも人類史では本当につい最近である。
つまり、昔の芸術観と今の芸術観は、製作者が匿名であるか、特定させるかとで、隔絶されている。
だから、現代の研究者が行っている本物・偽者の定義は過去の芸術観には当てはめることが
きわめて難しい。
それでは、現代の定義としての楽譜の本物・偽者はどうやって区別されるのだろうか?
私は、この授業やいろいろな書籍を読んで、厳密に考えて本物とは一つ、
自筆譜のみだと思った。本物の音楽とはその曲の作曲者が演奏される場にいて納得する
作者の意が反映された音楽だと思う。そうすると作曲者の死後、本物の音楽を作り出すことは
不可能になる。
だとしても彼自身の許可を得ずに演奏される音楽も人々の心を打つものならば芸術である。
芸術には本物や偽者の区別はない。それは全ての芸術が成功で本物であり、“芸術”と判断
されるからだ。偽者とは作曲者を偽っているから偽者なのか?その作曲家であるから感動
したのか、その作曲家でないとわかったら感動しなくなるのか。そんなことはない。
出版社が作者名を偽ったという事が研究で分かったとしても、その研究は素晴らしいかも
しれないが、曲の価値を変えてはいけない。
音楽は“時間芸術”であり、前に演奏した音楽と全く同じ音楽を演奏することは、状況・奏者
ともに難しく不可能である。近年は機械を通して録音した演奏を再生し聴くことが出来るが、
生の演奏にあった感動やその場にいたがために起った変化を実感できない。そのものを
体験することは不可能である。
だが、作曲家の意志でなくとも、その演奏を成功させようとする指揮者達奏者の努力は報われる
べきであるし、その素晴らしい演奏には、一つ一つの本物が存在している。そしてまた、音楽や
演劇といったものが舞台上と観客席の心の対話から成り立っているとすれば、一つ一つの演奏や
演技に、一人一人の本物の感動があるはずだ。
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