デューラーの自画像について
私は史学科の学生で(つまり博物館や美術館が好きで)、学芸員資格取得のための授業を受けていることもあり、美術館にもたまに行く。しかし、展示されている絵画や彫刻をため息ついて眺めるだけで、作品の表す状況やそれを製作した時の作者の立場や人となりなどを深く考えることがなかった。ルネサンス期の画家レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、ラファエロなどの歴史の教科書に必ず載っている超有名処は、カリスマ的存在感のある画家として記憶されていたが、それでも彼らの残した作品と、彼らの生涯、作品を書いた時の様子が結びつくことはなかった。だから、先生の比較芸術学講義は、芸術作品に対する私の視点を大きく変えたと思う。そこで、授業で興味を持ったデューラの自画像(単独)についてこのレポートにまとめてみたいと思う。
■自画像
優れた美術家は、その系譜や『回顧録』などの文字による自己表現の他に、彼の性格とその発展を油彩と素描の自画像において明瞭に表現することが出来る。デューラーの自画像で、私が見たものは4点ある。1484年に描かれた13歳の銀筆自画像(ウィーン)と、1493年の21歳頃の油彩画(パリ、ルーヴル美術館)、1498年に完成した26歳の自画像(マドリード)、翌年に描かれた28歳の頃の自画像(ミュンヘン)である。フェディア・アンツェレフスキー著(DUR)、前川誠郎・勝 國興訳、デューラー 人と作品(岩波書店)では、デューラーの人間像をこの一連の自画像から描き出す試みをしている。
◆1484年の13歳の銀筆自画像(ウィーン)
そこでは、自己意識を強くもち13歳という若さで自画像を描くというデューラーのような人間、―自己自身にこれほど早くから、これほど継続的に取り組んだ近世初頭の―人間に出会うのは驚くべきことだと述べている。しかし、デューラーの自身を捉える早熟な姿勢の表れよりも、13歳の頃に描かれた作品が未だに残っていることが注目に値すると私は思う。自画像を描く者は、ちょっとした画材さえあれば今も昔も少なくないと思うからだ。古代の画家アペレスやマルチナ、16世紀初頭の女性画家を挙げるまでもなく、画家達は顧客に注文されたものの他に何かしら(観察のためにでも)自分を描いていたであろう。つまり、若い頃の作品が残るということは、それは親が残しておいた可能性が高く、デューラーの場合金細工師である彼の父がその頃すでに息子の才能を見抜いた、とノートには記されている。
◆1493年の21歳頃の油彩画(パリ、ルーヴル美術館)
1493年、徒弟遍歴中にシュトラスブルクのあたりでスケッチした21歳の自画像(エアランゲンのペン素描)について、授業で習った先生の見解とこちらの本とは少し違った。自分の像の上方に2行句で書き加えた銘文(わがことは上にて定められたるがごとくなれかし)≒(自らの運命は上のほうで決められている)が何を意味するかについて、授業では婚約のことを示唆している(?)、その根拠に結婚を暗示する西洋アザミを手に持っていると習った。これに対して、上の本では、“上部ライン地方のアレマン方言に倣った詩文によって、自らの宗教的信念を暗示したのであり、彼が手にもつアザミ科の植物エリンギウムによって、銘文に示される信仰心が再度強調される”と述べている。(↑引用→)“カールスルーエ(美術館所蔵)の「苦悩の主(としてのキリスト)」の金地におけるように、それはここではキリストの受難の象徴と解されるべきもので、この植物をと呼ぶポピュラーな命名が語るような愛の象徴ではない。ゲッティンゲンでこの絵の模作を見たゲーテ以来、この自画像は、デューラーが1494年7月に結婚することとなるアグネス・フライへの求婚の贈物だと広く誤まり信じられてきた”...と、強く否定していて、“皆が誤解”しているのを“かなり怒っている”雰囲気さえある。しかし、私が思うに、宗教の信仰とは、人生において大きな壁にぶつかり自分の意思がくじけそうになった時にひたすらすがり、強固になるものであって、デューラーも結婚という一つの転機から、神について改めて自問し、信仰告白をするにいたったのかもしれない。“自己の運命が神の手に委ねられていると告白するとき、それはけっして諦観の嘆息ではなく、真の神への信仰の表現なのである。(引用)”と述べる著者はやはりクリスチャン?と思ったが、中世から近世初期のキリスト教は、今日のものとかなり違うものだったということを他の授業(東洋史のイギリスインド会社etc)で伺った。宗教が政治に介入してくる、宗教の力の強い時代だったと習った。“現代”の“日本人”である私たちが、デューラーの信仰心を測ることは難しい。何にせよ、美術家が技を磨き成熟に向かう中で、自分の行為を見つめなおし自分の容貌を冷静かつ迅速な筆線で捉えたといってよい。
◆1498年に完成した26歳の自画像(マドリード)
1498年に完成したマドリードの作品は、見た途端、なんだこの奇異な格好はと思った。カラフルで珍妙な流行衣装をまとい、カールをつけたしゃれた長髪と、個性派の人士のみがたくわえたひげを伸ばした容貌で窓辺に立つ姿は、前2作とは比べ物にならないほど堂々として誇らしげであり、宗教的不安(信仰告白的要素)はなんら見受けられない。当時の流行なのかと思ったが、当時にしても伊達な格好だったらしく、飾りひげは友人達から冷やかしの種にされ、それに対し彼は自ら<長髪で、ひげのある画家>という自己風刺をして冷やかしに応えたそうである。なぜひげを生やすことが冷やかされたのか、そしてなぜデューラーは冷やかしにも堪えずひげを生やし続けたのか、私にはよくわからない。しかし、けばけばしい華美な衣装の優雅さは、“美術家の世界にしばしば見受けられる当時の社会上流階層に自分を同類化しようとする努力の現われ”だと、本は述べている。例えば、ルーベンスは貴族にしか許されていなかった剣をいつも携えていたというし、ワーグナーは作曲の際ゆったりとした絹の外套を着るのが常であったと伝えられているそうだ。現代の音楽家や美術家、芸能人、アイドルなど人前で自分を表現する人にしても、時代に先行した格好をして、一般人の目を引き寄せるものだ。おそらく、ひげも時代の先端を行くとともに個性的な格好として、自分の画家としての印象を周囲に強く固定させたかったのだろう。
出身と活躍との点から上層の手工業職人階層に属していたデューラーは、人文主義者と都市貴族との社交界への仲間入りを果たしていた。或いは彼の妻が都市貴族一門と親戚関係にあったことが、精神的社会的エリート人士の集団へ彼を属させる有利な条件になったかもしれないと著者は述べている。
◆1500年の28歳の頃の自画像(ミュンヘン)
この自画像を見て、一番衝撃的だったことは、今までのデューラーなのか、つまり“自画像”なのかというくらいに顔が変わってしまっていたことであった。2年前に描かれた自画像と比較するとあまりにも違いすぎることがわかる。まず、髪の毛の色が金色(茶?)で、艶のあったものから、暗い黒い色に変わっている。前髪をあげ、顔も下膨れになったように思う。それから、貴族への仲間入りを果たしたかのような珍妙な衣装を纏わず、暗い色のコートを着ている。そして、画家としての明るい前途を表すかのような窓辺での自画像とは対照的に、漆黒の闇にたたずむ宗教的観念の強い作品となっている。そして、今までの斜に構えた4分の3正面の自画像と大きく異なり、真正面を向いている。この点は、先生の説明を受ける前にいろいろな印象を受けた。横や斜めを向いている顔というのは、たいてい動作があり、外に向かっていく力を感じる。それは、どちらかを向いている顔が、二次元の絵の中で右半分左半分が不均等に描写され、その不安定さが動きを表すからだろう。特に顔の中でも目(瞳)に顕著であり、その目が顔の向きと同じ方向を向いていれば、“先”や“未来”の動きを指し示し、或いは他の顔の部位によれば、“呆けた顔”ともとることができるかもしれない。逆に、目が顔と反対の方向を向いていれば、それは体に反する意志の方向であり、その意志の対象が目の先にいる人、つまり絵を見る人に向かっているように見える。しかし、正面の顔は少し違う。実際の正面の顔は均等ではない場合が限りなく多いが、デューラーのこの自画像の顔はほぼシンメトリーである。正面の自画像は、目の前にいる鑑賞者に対する意識と同様に、真正面の自画像を、鏡を見ながら描くことで自分自身を深く掘り下げて観察している。そこに、外への働きかけはなく、静止の状態であり、内側を見つめる宗教的な側面が見えてくると、私は思った。無論、そこに色相(明暗)も関係していることは言うまでもないが。
授業では、自画像を正面から描くことの珍しいこと、主に死人、そしてキリストであることを教わった。この点で、正面画が静止=死を表すとした私の考えと一致する。顔つきが別人のように変わってしまったこと(レッテルスの手紙という文献(捏造)によるキリストの人物像)や正面からの描写法は、Imitatio Christi, Conformitas Christiキリストに倣い、キリストと合致することが、神を冒涜するものでなかったと思われる。神は世界と生物と最後に人間を作ったが、自分達美術家達も素晴らしい作品を作っている点で神と同じ行為をしているということを訴えたかったのだと、説明された。ルネサンス期では、手を使うものは地位が低いとされ、神学、幾何学、文法、音楽などの自由学芸(教養)としての理論的な学問と技芸のうちの美術は一線を画していた。このことに対する反発として、デューラーは、神の描写に倣った自画像を描くことで、画家の行為が神の天地創造にも匹敵する高貴な高位であることを示したかったのだと思われる。
先ほど紹介した、デューラー 人と作品では100年前ウィーンの学者モーリッツ・タウジングが明らかにしたキリストとの相似の事実に対して、キリストへの同化を不遜かつ冒涜とみなす傾向が続いていることを述べている。マドリードの自画像(1498)で明示された虚栄心のような性格がここで際限なく強調されていると間違って評価されたのである。しかし、これはむしろ近世初頭のヨーロッパの美術家が自らに与えた意義を表すための型式となった図像表現と理解されるべきものであり、造形思想の中心にある創造的、芸術的能力に訴えて出来た作品であると著者は述べている。また、デューラーの絵画を調べる中で、この自画像にいろいろな直線や曲線が引かれた図があったが、デューラーが幾何学的図式を利用して、キリストとの相似を書き出したことの意味、測量術の役割についても触れていた。<絵画術以上に多く、また多様な仕方と形とにおいて量を必要とするものはない・・・>という彼の言葉は、絵画はこれまでの如く手工技芸にではなく、その数学への関連の故に幾何学をそのひとつとする7つの自由学芸に数えいれられなければならないという主張を持っていたといえよう。
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