コルチャック先生

この作品は1990年にカンヌ国際映画賞を取ったようですが、前回の『地下水道』と同じく、ポーランドの同じ映画監督アンジェイ・ワイダ氏による作品です。図書館には彼の作品がたくさんあります。ポーランド語だけれども、彼の作品は大変素晴らしく有名で巨匠と呼ばれているそうです。私は知りませんでしたが・・・。
『地下水道』が1957年制作だったから、その33年後に作られた映画です。だけど白黒なので古い印象を受けます。しかも題材もおそらく地下水道と同時期の戦時中です。ビデオのカバーにはアンジェイ・ワイダが20年の歳月を費やした感動作と書いてあります。
白黒フィルムで撮られた最近(…といってもw)の映画だと、『シンドラーのリスト』もそうですね!!シンドラーのリストも戦争の話でした。ユダヤ人迫害、ユダヤ人のゲットー移住それから強制収容所・・・は共通しています。『シンドラーのリスト』では、ワンシーンだけある女の子の衣装が真っ赤だったのが非情に鮮明ですね・・・。真っ赤、血の色、生命力…戦争の残酷さ、挫けない命の力・・・そんな感じの・・・。

話がそれました(笑)ビデオの説明を引用(+蛇足)しますと・・・
ヴォイテク・プショニャック演じるコルチャック先生は実在の人。ポーランド伝説のユダヤ人ヤヌシュ・コルチャックの実話です。彼は、世界初の小児科医、児童作家、ラジオの人気パーソナリティ、孤児院の院長として多岐にわたり子供達のために生涯を捧げました。彼の著書『子供の権利の尊重』は1989年国連総会で採択された「子供の権利条約」の原案となっています。それほどすごい人です!
ポーランドのユダヤ人孤児院の院長だったコルチャックは、孤児達の自治による「子供共和国」を築きました。例えば、法廷を作り、裁判官を子供達の信任をえた子がやり、コルチャック先生達さえも裁かれる、というものです。彼はかなりの高齢でしたが、子供達の尊厳のために多忙な毎日を送っていました。

ところが、時は第二次世界大戦中、ナチス独軍のポーランド侵攻下にあり、ポーランド在住のユダヤ人は、ゲットー(ユダヤ人専用居住地域)に移住させられます。孤児200人を抱えた院長コルチャックは、子供達の食糧や暖かい寝床を確保するために奔走し、精神的苦痛を少しでも味わせないために尽力します。彼が、金持ちのユダヤ人に食べ物を貰うシーンが何箇所もあります。しかし、彼は頭を下げて頼み込むことはせず、飢えている可哀想な孤児に対し、金持ちがお金や食べ物をくれるのは当然だと思います。そして、ドイツ人と汚い取引をしている金持ちユダヤ人からも平気でお金や食糧を貰います。それを貧しいユダヤの若者達に咎められても、子供の命を救うためにはこれしかない、と言うのです。
彼は、孤児院に収容できなかった子供達が路上で飢えや病気に苦しみ、或いは銃弾を浴びて死んでいくのを見ます。大人たちが始めた戦争に罪もない子供達が巻き込まれ死んでいく、彼はこのことに激しい怒りをぶつけますが、彼自身の力ではどうにもならない。せめて安らかに死なせてあげたい。それすらも出来ない、恐ろしい嘆き・・・。
一方で、食うに困らない裕福な暮らしをしているユダヤ人もいます。彼らは、ずる賢くドイツ人に取り入り、上手く取引をして儲け、他の貧しいユダヤ人には許されない特権を持っています。彼らは、『金持ちだけが助かればいい。貧しい者は犠牲となり、能力ある金持ちが優遇する“能力ある芸術家”もまた保護され、ナチから逃れるべきだ』と思っています。ドイツ人が差別しているのが『ユダヤ人』という“人種”であり、差別された人種は、つまり少数派で迫害されるのだから、一丸となって対抗し戦えばいいのに金持ちの彼らは差別する方の味方につき、弱者を痛めつけているのです。
また、ユダヤの子どもたちの敏感で多感な精神が戦争によって大きく揺らぎます。好きだった女の子と離れなければならなくなったユダヤの少年は自分の人種を呪いました。また病気で寝たきりの母親が孤児院に託した少年が、母親が死んで、他の人と一緒に棺おけに入れられてどこかにひかれて行くのを見ました。ユダヤ人でなければ、貧しくなければ、彼の母親は衛生的なところで、栄養価の高い物を食べて、ちゃんと看病されて回復したかもしれません。それをどうして一人きりにして死なせてしまったか、少年の心は痛みます。
道との間にレンガで壁を作り、外の悲惨な状態(戦争)から子供達を隔離しようとしますが、真夜中に銃声は聞こえてくる。そして、子供は怯える。そんな時もコルチャックは、子供を抱き寄せ、あやして寝かしつける。彼の愛情がひしひしと伝わってくる。優しさの奥に戦争への憎悪が込められた瞳。そのさらに奥には、博愛の精神が流れているのです。
1942年8月、とうとう孤児院の子供達がゲットーから強制収容所に移送される日が来ます。強制収容所には大きな炉がいくつもあり、それはユダヤ人を殺し焼くためのものだと、そこから脱出した人が語っていたように、
そして、歴史叙述にもあるように・・・そこはユダヤ人という“人種”を根絶やしにするための残酷極まりない場所でした。労働力がある者は、働かせ続け、老人や子供といった力のないものは、ガスで殺してしまうという所です。アウシュビッツが有名です。
金持ちユダヤ人の一人は、学術的権威のあるコルチャック一人を救おうとしますが(ドイツ人にもコルチャック救出には理解がある)、彼は自分だけ救われることを拒みます。親しいポーランド人女性にさえ「あなたほど親しい人が、なぜ私をわからない」などと怒り、子供を裏切ることは出来ないと固い信念を表明します。

そして、子供達の先頭に立ってトレブリンカ強制収容所行きの移送用汽車に詰め込まれます。

映画では、その汽車は発車した後、途中で連結が切れます。残された車両から子供達とコルチャックが出てきて笑いながら霧の中に消えていく結末ですが、それは理想であって儚い望みであって、彼らの尊い命が自由に解放されることはありませんでした。
彼は、その強制収容所のガス室で子供達と共に命を落とします。

ユダヤ人が迫害される理由として、宗教を異にし溶け込もうとしない頑なな姿勢や、(迫害の結果)職業柄人に憎まれ疎まれする役割を演じてきたことが悪循環で、あると思う。ゲットー(強制的に隔離されるユダヤ人居住区域)は中世時代から頻繁に作られており、迫害もよくあることだった。まぁいろいろあって、極東に住む私達には向こうの情勢は理解できないことなのかもしれない。
けれども、どんな人間にも(多大な被害を他の者・物に与えない限り)生きる権利がある。戦力のない人間、経済的弱者、か弱い純粋な子供達を戦争に巻き込み殺戮することは、抵抗しない者を無差別に殺していく猟奇的虐殺で非人道的である。
コルチャックの最大の焦点は彼の愛する“子供達”だった。全ての子供が無垢で純粋と言うわけではない。彼らの心が傷ついた時、彼らが持っていた無限の可能性が削減される。その無限の可能性を戦争などと言うくだらないものに奪われたくない、コルチャックはきっとそう思ったことだろう。彼は子供達をペットのようにあやしはしない。彼は子供達の体ではなく心をじっと見つめ、見守る。


コルチャックは映画の最初にこう言った。

「・・・献身ではありません。子供が好きだから。子供のためにやっているのではありません。私のためにやっているのです」

誰かのために身を尽くすと思ってはいけないのだ。献身と思ってやった行為はきっとその誰かのためにはなってない。自分が真心を持って行い、自分がしたいことを忠実に繊細にやるからこそ、そこに思いやりが生まれ、自分の感情がストレートに相手に伝わっていくものだと・・・。そして、その行為が相手にとって第三者にとって“献身”と思われるのかと、私は最後にそう感じた。





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